2022年01月19日

令和4年 年頭所感

令和4年 年頭所感


洞山良价禅師著『宝鏡三昧』

明けましておめでとうございます。今年は壬寅(みずのえ・とら)の年です。
千二百年前、中国の唐代に洞山良价という禅僧がいました。曹洞宗の開祖です。

洞山禅師は『宝鏡三昧』という韻文を作って、釈尊より代々伝えられた真実の教えを敷衍しました。
一句四言の短い言葉で構成され、全文で三百七十六字の小編です。しかし、韻文なので示唆に富んだ単語や、故事を知らなければ意味が理解できない言葉が多用されています。

私は冒頭の句からつまずいていました。
「如是之法 仏祖密附(如是の法 仏祖密に付す)」
諸仏が悟った真実の法は、偉い祖師のみが秘密裏に伝えてきたと解釈していたのです。

思い込みや貧弱な語彙力で詩文を理解しようとすれば、こんな簡単な句さえ間違ってしまいます。
秘密裏に伝わっていることなど何ひとつありません。
私たちの目の前に明白にあらわれているのが真実の法です。

「仏祖密に付す」の「密」とは秘密ではなく、親密とか密接という言葉であらわされるように師匠から弟子へ親しく綿々と受け継がれてきたものだということです。

分からない所だらけですが、私にとって最も分からない箇所を年賀状に書きました。寅年ですから虎にちなんで。
「仏道垂成 十劫観樹 如虎之欠 如馬之馵(仏道を成ずるになんなんとして、十劫樹を観ず。虎の欠かけたるがごとく、馬の馵(よめ)のごとし)」

仏道を成就しようとして十劫という永い時間を坐禅に費やした。それは虎が欠伸(あくび)したようなものだと書いてあります。
誰か意味を教えてください。



Posted by 一道 at 11:06│Comments(8)
この記事へのコメント
いつも『両忘』をいただき、ありがとうございます。
「如虎之欠」について、以下のサイトを見つけました。
https://www.zen-essay.com/entry/houkyouzanmai

本サイトの現代語訳を参照するならば、前段の
顛倒想滅 肯心自許 
要合古轍 請観前古
(現代語訳)
白黒が逆になった考え方や、妄想や執着から離れれば、安らかな素の心に戻ることができる。
穏やかな水鏡のような心を思い出すことができる。
だから先人が歩んだ道を自分も歩もうと思うなら、まずはその歩みがいかなるものであったかをよくよく考えなければならない。

に続く「如虎之欠」は、
(現代語訳)
もしも先人の歩みを知らずして、思い込みで修行すれば、時間はただ虚しく過ぎていくだけだろう。
それは虎が獲物を仕留めることができず欠伸あくびをするような、

と理解するのに違和感はなく、単純な例えであり、深い意味をそこに見出す必要があるのか?「如馬之馵」という例示を重ねていることからも単純な例えに思いました。

佐藤一道住職が、どのような点に違和感を感じ、何を感じて「わからない」と思ったのか、お話を聞いてみたいと思いました。
Posted by 原田英治 at 2022年02月01日 20:29
いつも『両忘』をいただき、ありがとうございます。
「如虎之欠」について、以下のサイトを見つけました。
https://www.zen-essay.com/entry/houkyouzanmai

本サイトの現代語訳を参照するならば、前段の
顛倒想滅 肯心自許 
要合古轍 請観前古
(現代語訳)
白黒が逆になった考え方や、妄想や執着から離れれば、安らかな素の心に戻ることができる。
穏やかな水鏡のような心を思い出すことができる。
だから先人が歩んだ道を自分も歩もうと思うなら、まずはその歩みがいかなるものであったかをよくよく考えなければならない。

に続く「如虎之欠」は、
(現代語訳)
もしも先人の歩みを知らずして、思い込みで修行すれば、時間はただ虚しく過ぎていくだけだろう。
それは虎が獲物を仕留めることができず欠伸あくびをするような、

と理解するのに違和感はなく、単純な例えであり、深い意味をそこに見出す必要があるのか?「如馬之馵」という例示を重ねていることからも単純な例えに思いました。

佐藤一道住職が、どのような点に違和感を感じ、何を感じて「わからない」と思ったのか、お話を聞いてみたいと思いました。
Posted by 原田英治 at 2022年02月01日 20:29
以前に紹介いただいた、内山興正老師の思索を巡めぐって『哲学する仏教』は大変興味深かったです。1/n=small self、n/n=1としてのbig selfという理解により、nを知り(世界について学ぶ)、nに近づく(自己拡張)ことを実践していくことが大切と思うようになりました。
Posted by 原田英治 at 2022年02月01日 20:47
原田英治様
「如虎之欠」についての見解ならびに参照サイトを教えていただき感謝申し上げます。

 寅年にあたり年賀状を作るとき、ふと「虎の欠けたるが如く 馬の馵の如し」という『宝鏡三昧』の二句が浮かびました。
それで虎が欠伸(あくび)している図を中央に持ってきました。

 原田英治様はじめ荒木正道さん、柴田悦己さん、山口裕子さん、私の娘、そのほか平勝寺寺報「両忘」を読んでくださっている多くの人々からリアクッションをいただき、勉強になりました。
感謝申し上げます。

 40年前、安泰寺で修行しているとき『宝鏡三昧』の提唱を聞いたのですが、私には老師の提唱を理解する力がなく、「馬には馵があるから夜でも走れるのだ」という本筋でないところだけ今でも覚えているような状態です。
きっとそのとき、虎の「欠」の意味も教えていただいたはずですが、忘れてしまいました。

年賀状を作る12月に入って、以下のように早とちりをしました。

「虎の欠けたるが如く」の「欠けたる」を現代中国語の「打哈欠 da ha qian あくびをする」または「欠伸 qianshen あくび」と理解したので文脈を誤解しました。

洞山良价禅師(807年~869年)が活躍した唐の時代に「欠」が「あくび」を意味していたのか、他の意味があるのかを典拠を以って明示しなければ、本当には理解できません。

韻文は短い語句で深い意味を表現しようとするので、典拠を調べることは大切だと今回、肝に銘じました。

 私は澤木興道老師の「虎は人を食らう毎に耳必ず一欠す」という「欠」の見解に沿って、今後この部分を参究していきたいと思っています。
 
澤木老師は私の法の上での曾祖父です。

 宝鏡三昧の「如虎之欠 如馬之馵」については澤木興道全集・第14巻・P316に書いてあります。

 澤木老師の提唱に沿って、私の見解を述べることは、皆様に重ねて誤解を与えかねません。

 私の理解や註解では、不十分です。
 そこで私が読んだ書物や文献の書名や参照すべきページ数などを列挙し、皆様が各自でご理解くださいますようお願い申し上げます。

1.澤木興道著 『澤木興道全集 第14巻 宝鏡三昧吹唱講話』 P316に詳細に解説。
 大法輪閣 昭和40年6月1日 初版発行
2.面山瑞方著 『宝鏡三昧吹唱』 1767年刊 澤木老師が講話で引用。
3.辻顕高著  『参同契宝鏡三昧纂解』 P42に「傷人一度耳生一缺」とある。
  京都積善社 明治19年2月 翻刻
4.指月慧印著 『参同契宝鏡三昧不能語』 享保21年春3月
  愛知文光堂 明治14年3月 古田梵仙編輯 P56に「虎欠」と「馬馵」の典拠がある。
  「虎缺」は格物論、「馬馵」は本草綱目巻50下 馬部
5.西谷啓治、柳田聖山編 世界古典文学全集 第36巻B 『禅家語録Ⅱ』 P136に解説
  筑摩書房 1974年2月15日 第1刷発行 
6.椎名宏雄著 『やさしく読む 参同契宝鏡三昧』 P168に解説。
 大法輪閣 2018年9月10日 初版発行 P171に「虎欠」と「馬馵」の典拠がある。
 「虎欠」は蘇東坡著『物類相感志』、「馬馵」は司馬光編集『集韻』
7.原田雪渓著 『宝鏡三昧普説』 P305に解説。
  ペンハウス 2013年12月22日 第1刷発行
8.佐藤俊晃著 『曹洞宗教団史における参同契・宝鏡三昧』 平成3年3月
  印度學佛教學研究 第39巻 第2号
9.その他、まだ読んでいませんが、曹洞宗貫首を勤めた熊沢泰禅老師や洞松寺専門僧堂の鈴木聖道老師や東方学院の西嶋和夫氏の著作もあります。


 ここで一つ追加します。

 宝鏡三昧の提唱を聞いた40年前、師匠から言われたことを思い出しました。
「依文解義」と「依義解文」という言葉です。

 「依文解義」とは「文に依りて義を解す」と訓じます。
経典・語録の文字から仏法を理解するということ。人間は文字や言葉を使用して何かを伝えようとするのですから「文に依る」ことは当然です。
しかし「指月のたとえ」にあるように言葉と「指し示されるもの」は異なるということもあります。

「義に依りて語に依らざるべし」という教えがありますが、そこを師匠は「依義解文(義に依りて文を解す)」と言われたと私は理解しています。

「依義解文」という熟語があるのか、師匠の造語かは分かりません。

宝鏡三昧を曹洞宗の開祖・洞山良价、日本の道元禅師の宗旨として「依義解文」しなければ、またまた文意を誤解してしまうと思ったから「依義解文」という言葉を提示しました。

実は私の娘(薬剤師、東京都に在住)と大晦日に「如虎之欠 如馬之馵」についてLINEで意見交換をしました。

前の二句「仏道垂成 十劫観樹」について彼女は法華経・化城喩品の「大通智勝佛は十劫道場に坐するも、仏法現前せず、仏道を成ずるを得ざりき」を読んで知っていて、私にLINEで「佛であり、如来であったので、長い年月をかけて結局悟られたのかしら?どちらにしろ、修行を続けるのが大事で、悟るかどうこうは関係ないのですね」と見解を述べました。

私は直ちに「悟っているので仏です。仏なので修行しているのです」と返信しました。
これが「依義解文」です。

「仏道を成ずるを得ざりき」を文に依りて解釈すれば、「悟らなかった」となりますが、洞山良价の宗旨からすれば「不得成仏道」が大切ですから「不得成仏道のために精進する」と読まなければならないのです。

以上、思いついたことを長々と書きました。

原田英治様のメッセージに対する返信としては、的外れでしょうか。
ご意見をください。

2022.02.10 平勝寺 佐藤一道
Posted by 一道一道 at 2022年02月10日 18:24
原田英治様
「如虎之欠」についての見解ならびに参照サイトを教えていただき感謝申し上げます。

 寅年にあたり年賀状を作るとき、ふと「虎の欠けたるが如く 馬の馵の如し」という『宝鏡三昧』の二句が浮かびました。
それで虎が欠伸(あくび)している図を中央に持ってきました。

 原田英治様はじめ荒木正道さん、柴田悦己さん、山口裕子さん、私の娘、そのほか平勝寺寺報「両忘」を読んでくださっている多くの人々からリアクッションをいただき、勉強になりました。
感謝申し上げます。

 40年前、安泰寺で修行しているとき『宝鏡三昧』の提唱を聞いたのですが、私には老師の提唱を理解する力がなく、「馬には馵があるから夜でも走れるのだ」という本筋でないところだけ今でも覚えているような状態です。
きっとそのとき、虎の「欠」の意味も教えていただいたはずですが、忘れてしまいました。

年賀状を作る12月に入って、以下のように早とちりをしました。

「虎の欠けたるが如く」の「欠けたる」を現代中国語の「打哈欠 da ha qian あくびをする」または「欠伸 qianshen あくび」と理解したので文脈を誤解しました。

洞山良价禅師(807年~869年)が活躍した唐の時代に「欠」が「あくび」を意味していたのか、他の意味があるのかを典拠を以って明示しなければ、本当には理解できません。

韻文は短い語句で深い意味を表現しようとするので、典拠を調べることは大切だと今回、肝に銘じました。

 私は澤木興道老師の「虎は人を食らう毎に耳必ず一欠す」という「欠」の見解に沿って、今後この部分を参究していきたいと思っています。
 
澤木老師は私の法の上での曾祖父です。

 宝鏡三昧の「如虎之欠 如馬之馵」については澤木興道全集・第14巻・P316に書いてあります。

 澤木老師の提唱に沿って、私の見解を述べることは、皆様に重ねて誤解を与えかねません。

 私の理解や註解では、不十分です。
 そこで私が読んだ書物や文献の書名や参照すべきページ数などを列挙し、皆様が各自でご理解くださいますようお願い申し上げます。

1.澤木興道著 『澤木興道全集 第14巻 宝鏡三昧吹唱講話』 P316に詳細に解説。
 大法輪閣 昭和40年6月1日 初版発行
2.面山瑞方著 『宝鏡三昧吹唱』 1767年刊 澤木老師が講話で引用。
3.辻顕高著  『参同契宝鏡三昧纂解』 P42に「傷人一度耳生一缺」とある。
  京都積善社 明治19年2月 翻刻
4.指月慧印著 『参同契宝鏡三昧不能語』 享保21年春3月
  愛知文光堂 明治14年3月 古田梵仙編輯 P56に「虎欠」と「馬馵」の典拠がある。
  「虎缺」は格物論、「馬馵」は本草綱目巻50下 馬部
5.西谷啓治、柳田聖山編 世界古典文学全集 第36巻B 『禅家語録Ⅱ』 P136に解説
  筑摩書房 1974年2月15日 第1刷発行 
6.椎名宏雄著 『やさしく読む 参同契宝鏡三昧』 P168に解説。
 大法輪閣 2018年9月10日 初版発行 P171に「虎欠」と「馬馵」の典拠がある。
 「虎欠」は蘇東坡著『物類相感志』、「馬馵」は司馬光編集『集韻』
7.原田雪渓著 『宝鏡三昧普説』 P305に解説。
  ペンハウス 2013年12月22日 第1刷発行
8.佐藤俊晃著 『曹洞宗教団史における参同契・宝鏡三昧』 平成3年3月
  印度學佛教學研究 第39巻 第2号
9.その他、まだ読んでいませんが、曹洞宗貫首を勤めた熊沢泰禅老師や洞松寺専門僧堂の鈴木聖道老師や東方学院の西嶋和夫氏の著作もあります。


 ここで一つ追加します。

 宝鏡三昧の提唱を聞いた40年前、師匠から言われたことを思い出しました。
「依文解義」と「依義解文」という言葉です。

 「依文解義」とは「文に依りて義を解す」と訓じます。
経典・語録の文字から仏法を理解するということ。人間は文字や言葉を使用して何かを伝えようとするのですから「文に依る」ことは当然です。
しかし「指月のたとえ」にあるように言葉と「指し示されるもの」は異なるということもあります。

「義に依りて語に依らざるべし」という教えがありますが、そこを師匠は「依義解文(義に依りて文を解す)」と言われたと私は理解しています。

「依義解文」という熟語があるのか、師匠の造語かは分かりません。

宝鏡三昧を曹洞宗の開祖・洞山良价、日本の道元禅師の宗旨として「依義解文」しなければ、またまた文意を誤解してしまうと思ったから「依義解文」という言葉を提示しました。

実は私の娘(薬剤師、東京都に在住)と大晦日に「如虎之欠 如馬之馵」についてLINEで意見交換をしました。

前の二句「仏道垂成 十劫観樹」について彼女は法華経・化城喩品の「大通智勝佛は十劫道場に坐するも、仏法現前せず、仏道を成ずるを得ざりき」を読んで知っていて、私にLINEで「佛であり、如来であったので、長い年月をかけて結局悟られたのかしら?どちらにしろ、修行を続けるのが大事で、悟るかどうこうは関係ないのですね」と見解を述べました。

私は直ちに「悟っているので仏です。仏なので修行しているのです」と返信しました。
これが「依義解文」です。

「仏道を成ずるを得ざりき」を文に依りて解釈すれば、「悟らなかった」となりますが、洞山良价の宗旨からすれば「不得成仏道」が大切ですから「不得成仏道のために精進する」と読まなければならないのです。

以上、思いついたことを長々と書きました。

原田英治様のメッセージに対する返信としては、的外れでしょうか。
ご意見をください。

2022.02.10 平勝寺 佐藤一道
Posted by 一道一道 at 2022年02月10日 18:24
「依文解義」と「依義解文」の話を聞いて、量子物理学のデヴィッド・ボームの『ダイアローグ』(対話)と「読書」という行為について思考が巡りました。経典から学ぶことを、読書を通じた著者との対話と捉えると、その対話の中には著者が想定しない解釈(新しい意味)が生まれている。新しい意味の出現により仏教も進化してきた、進化している、のではないかという思いが浮かびました。「解」する以上、(著者の)真理とは異なる可能性があり、しかし、そのある種の誤解が創造の源泉にもなりうる。社会に新しい意味が出現する機会となるのだとしたら、誰かの解釈を鵜呑みにすることなく、自らの頭で考え、表現していくことの面白さを改めて認識しました。そして出現した意味の流れの系譜を追っていくことで、人類の進化の歴史を知り、歴史に残るような新しい意味を生み出す一歩となる。そんな学びを「依文解義」と「依義解文」は語っているようにも思いました。
Posted by 原田英治 at 2022年02月24日 17:16
原田英治様 
 コメント、有難うございました。
 豊田市方面で発行されています地方新聞に連載していますエッセイが100篇ほどたまりましたら出版したいのですが、相談にのっていただけますか。  2022.02.25 平勝寺 佐藤一道
Posted by 一道一道 at 2022年02月25日 21:02
いつでもご相談ください。
出版はその目的に応じて、いろいろな方法がありますので。
Posted by 原田英治 at 2022年05月30日 19:44
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