2021年01月01日

令和3年 年頭所感





明けましておめでとうございます。
丑年が始まりました。牛のように一歩一歩着実に進みたいものです。

とは言え、私はどちらの方向へ進めばよいのか。何を頼りにして生きていけばよいのか。
二千五百年前、釈尊がまさに死なんとするとき、弟子たちが発した問いでした。
釈尊は「自灯明、法灯明」と答えられました。
自らを灯明とせよ(自分自身を拠り所とせよ)、法を灯明とせよ(真理を拠り所とせよ)。
これが釈尊の遺言でした。

自分自身を拠り所とせよと言われても拠り所とすべき自分が何者か分からない。
富や能力や社会的地位は一時的に付け加わった属性であり私自身ではないことは承知している。
しかしそれらを取り除いてもなお存在している自分とは何か。
それをどのように求めたらよいのか、方法さえ分からなかった。
問いだけが切実だった。

先に進むことができない時は先人の知恵に学ぶがよいと気がついた。

学生時代、私が下宿していた京都の相国寺に十牛図が伝わっている。
それは室町時代の画僧、周文が描いたとされている。
周文の絵は中国・北宋時代の廓庵が創作した十牛図を元としていた。
 
十牛図とは、本来の自分を見失った者が、それを捜す様子を牛の図によって示したものである。
「本来の自分」が牛の姿で表され、本来の自分を捜す自分が牧童の姿で表されている。
十牛図という名前が示すように十の段階を追って牛を捜す様子が描いてある。

階段を上るように一段一段上って本来の自分にやっと会えるというあり方ではないと今は思っている。
しかし、当時は段階を追って説明してくれる十牛図が分かりやすく、指針となった。

第一図は尋牛である。
牛を見失って不安になっている様は私の姿そのものである。
そもそも何を捜したらよいのかも解らない状態である。第一図には牛が描かれていない。

第二図は見跡である。
相変わらず牛は描かれていないが、牛の足跡が描かれている。
牛の足跡とは何なのか。私は先人の教えだと思った。
先人の教えをきちんと聞いてよく学び、真理を会得すればよいと思った。
しかしそれは言葉で先取りしているにすぎず、本来の自己に出会ったという実感がなかった。

第三図は見牛である。
やっと牛のお尻というか尻尾を見ることができる。
私の日常は常に言葉で先取りし、考えごとばかりしている。
坐禅はその考え事をやめて眼や耳や皮膚で感じたことをそのまま受け取る行である。

第三図以降は今の私にはわからない。
ただ、坐禅を通して、釈尊が説かれた無常と縁起の真理の一端に私は触れることができた。

以上のことを自分自身に確認するとともに、皆さまに対する新年の挨拶として上のような年賀状を作りました。
  


Posted by 一道 at 10:56Comments(0)