2013年09月03日

観音石仏の移動




 足助から平勝寺に至る昔の三つの道沿いに百体の観音菩薩像が祀られています。

 慶応元年七月に坂東三十三観音像が作られました。
この観音石仏群は桑田和を出発点として大蔵連を通り綾渡地内に入って平勝寺門前が終点の三十三体です。

 つぎに慶応二年七月には秩父三十四観音像が作られました。
この観音石仏群は中之御所を出発点として漆畑、椿立を通り綾渡地内に入って平勝寺門前が終点の三十四体です。

 続いて慶応二年八月には西国三十三観音像が作られました。
この観音石仏群は安実京を出発点として有洞、山谷を通り綾渡地内に入って平勝寺門前が終点の三十三体です。

 足助から平勝寺へ車で来山されると出会えない観音石仏があります。
それは人しか通れない旧道に観音石仏がお祀りしてあるからです。
めったにお参りできない旧道に観音さまがおみえになるのは忍びないと山谷の人々は思いました。
そこで今年度の「わくわく事業」の予算を使い旧道の観音石仏を車の通る道路沿いに移動させようということになりました。
 
八月二十四日(土)、山谷の役員さん四名と私は旧道沿いにある十四体の観音石仏の魂抜きをおこない、いつでも移動できるよう準備しました。
私が林の中の観音さまに再会したのは二十三年ぶりです。
平勝寺住職になった頃、鈴木茂夫先生や柴田金一さんに百体観音石仏についてその由来を聞きました。
平勝寺に関係のあることだと思い、一体一体を調査しました。
石仏の大きさ、像容、寄附者の氏名など記録しました。
そしてB紙に百体観音石仏の位置を書きこみました。
平成二年十月二十五日に清書し、一枚の大きな地図を作っておきました。
今回その地図が役立ち、林の中にある観音さまをすぐに見つけることができました。

 移動整備するのは西国三十三観音像のうち山谷地区にある第九番から第二十三番です。
第九番は有洞から山谷に入る白山神社の対面の旧道にあったものです。
第十番は白馬観音堂の麓にあったものです。
第十三番はありません。
百体観音のうちこの西国第十三番観音像だけが無いのは、平成十七年八月に盗難に遭ったからです。
落部の野田甚五郎氏によって寄附されたものですが残念ながら誰かが盗っていってしまいました。

今回、観音さまを車が通る道に移動するにあたり、盗難の心配がありますが、強力な接着剤で観音石仏を土台石に着けるとのことです。 

第十四番、第十五番は車道の北側の旧道にあったものです。
第十九番は山谷の薬師堂の脇にあったものです。
第二十番は最も険しい林の中にありました。
第二十一番は筒井敏夫さんの炭焼き小屋の後ろにあったものです。
第二十二番と第二十三番は東海自然歩道沿いにあったものです。
 
移動整備がなされた折りには、魂入れの法要をおこないます。

 観音石仏と言えば、数年前から百体観音石仏群の調査をはじめられた人がふたりみえます。
ひとりは、さとやまユースの小川光夫さん、もうひとりは夜念仏に参加されている藤森修先生(解剖学教授)です。

 小川さんは秩父三十四観音を調査し、私に疑問を呈しました。
私が秩父第十九番観音石仏(黒柳博家入り口にあるもの)としているのが違うのではないか。
第十九番は椿立明神社の入り口にあると言われました。
一緒に調査に行きましたが、小川さんが言われる通りでした。
では、黒柳家の前にある観音石仏は第何番になるのでしょう。
今後、継続調査します。
 藤森先生は人体について常にデータを科学的に処理されておられます。
観音石仏も学術的に記録されることを私は期待しています。
  


Posted by 一道 at 14:22Comments(2)