2024年01月01日

令和6年 年頭所感

新年明けましておめでとうございます。

今年は甲辰(きのえ たつ)の年です。年賀状に「登竜門」と書きました。

この言葉は中国『後漢書』に書かれている故事に由来します。
一般には、立身出世のための難しい関門を突破したという意味で使われます。
黄河の上流に龍門という激流があり、そこを越えることができた鯉は龍に化すると言い伝えられています。
たとえば、明治時代、高等文官試験に合格した者は将来、国家官僚エリートになることが約束されていました。
エリートになるための龍門が高等文官試験だったというのです。

一般的には上記の如くですが、道元禅師が言われる龍門は全く違います。

龍門は立身出世のためにくぐる門ではなく、仏となり祖となるために通過しなければならない處だと述べられています。
詳しくは弧雲懐奘が記した『正法眼蔵随聞記 第六の九』をご覧ください。

第六の九に書かれていることを要約して現代文にするとつぎのようになります。

「海中に龍門という處があり、そこの波や水は特異なものではなく、他所と全く同じである。しかし不思議なことに、魚がそこを通過すれば、その魚の鱗も何もかも変わることがないままに、たちまち龍となる。そこが龍門である。

僧侶にとっての龍門は叢林(修行僧が一つのところに住んで修行に励んでいる禅の道場)である。食べることも着ることも他所と一緒である。それでも叢林に入れば必ず仏となり祖となる。

叢林に入ると入らざるとは、あの龍門を通過するのと通過しないの区別があるのと同じである」と。

このように叢林の大切さを述べておられます。

安泰寺の廊下に「一生不離叢林(叢林を離れず)」という横額が掲げてありました。
『正法眼蔵 道得』に書かれた言葉です。
道元禅師がいかに叢林を大切に思われていたかが分かります。
 
入門したとき内山老師から直々つぎのように言われました。

「黙って十年坐ること。さらに十年坐ること。その上十年坐ること。 それで分からなかったら私の首を取っていいよ」と。

十年半、安泰寺に安居し、その後四十年が過ぎてしまいましたが仏道の何たるかが未だ分かっていません。
道元禅師が私に言っておられます。「道を得ることは根の利鈍には依らず、志しの至ると至らざるとなり」と。
すべて自己責任、仏道が分かっていないのは私の志が至っていなかった所為です。
新年に当たり初心に帰ります。



  


Posted by 一道 at 15:59Comments(0)