2011年10月08日

九月の掲示版




九月の掲示版は、上の写真のように書いた。
『正法眼蔵全機』を読んで、自分の言葉で言い表わしてみた。

『正法眼蔵全機』の冒頭に「諸佛の大道、その究盡するところ、透脱なり、現成なり。」と示されている。
 あらゆるつくりごとをしない、これを刻々に実践しているのが佛である。
ゆえに佛は覚めたる者である。
覚めたあり方を究め尽くしていることが、そのまま一切の束縛から離れていることであり、今が今になっていることであると。

 上述されたあり方とまったく逆の日常を私は送っている。

心配や悲しみ、苦しみや葛藤の日常である。
しかし悲しみを乗り越えた幸福感を知らないわけではない。
苦しみが去った穏やかさも経験している。
そのような記憶を通して不安定な日常の中に安定を求めてきた。
その安定をこれから先にも持続したいと執着している私がいる。
しかし、その執着がさらなる混乱と不安を生み出す。
頭で考えている限りどこまで考えても安定はない。

 「その透脱といふは、あるひは生も生を透脱し、死も死を透脱するなり」

生が死を透脱するのではなく、生が生を透脱すると書かれている。
苦しみが止んで安心するのではなく、苦しみを苦しみのまま受け取って行けることが透脱である。
ここで私は内山老師のことばを何度も反芻した。

「生と死と、いずれもアタマのなかで考えている。
そうして『生きているのが死ぬんだから、苦しいに違いない』と、こう考えるわけだ。
つまり、アタマの中に描いた幻影の中で生死を考えて、その中に迷い込む。
それで怖い、怖いと思う。
ところが本当はそうではない。
生きたり死んだりというのは、このアタマの中の出来ごとではなくして、人間の思い以上の出来ごとなのだ。
アタマの手放しのところで行われることなんだ。」と。

 私と私を取り巻く世界は固定的な独立した要素でなく、関係の中で成り立っている。
そして一瞬も留まらず流れている。

 それにもかかわらず私のアタマは事態を固定的に捉え、透脱からさらに遠のいてしまう。
アタマで描いた過去や未来の幻影の中でしか生きていない私は本当に生きていると言えるのだろうか。

「現成これ生なり、生これ現成なり」とはっきり書かれている。

記憶の中にある持続や安定を求めているかぎり、私の今は今に成っていない。
 
  


Posted by 一道 at 16:56Comments(0)