2018年01月01日

平成30年 新年のご挨拶



あけましておめでとうございます

皆さま一人ひとりが、さまざまな思いを持って新しい年を迎えられたことと存じます。
皆さまにとって良き年になりますように。
 
今年は、いぬ年です。
 私たち禅宗の僧侶が読む語録、特に公案集のひとつに『無門関』という書籍があります。『無門関』は今から約八百年前に中国南宋の時代に著されました。
 
禅宗では古来より修行者が師匠に疑問を呈したり、師匠が修行者に指針を示したりしてきました。
そのように禅者たちの間で交わされた会話(問答)のうち、大切だと思われるものを無門慧開という人が四十八則選び出したものが『無門関』です。
 
その『無門関』の第一則は犬(狗子(くす))を話の取っかかりとして、趙州和尚さんが修行者にいのちの本質を示したものです。
 
私が就いた師匠は公案を使わなかったので、『無門関』第一則、無字の公案すら私は通っていません。
ですから表面的なことしか言えませんが、いぬ年ですから第一則を紹介します。
 
或る修行僧が趙州和尚に質問しました。
「狗子還有仏性也無 (狗子に還って仏性有りや また無しや)」
修行僧の質問の大意は「犬にも仏性があるでしょうか、または無いでしょうか」というものでした。
趙州和尚は「無」と答えました。
 
問答はこれだけです。このたった一字の「無」に禅僧は一生をかけて取っ組み合って参究します。
 
今の私には何も言えません。
ただ、仏道修行は他人事ではなく、すべて自分に引きつけてこの私がどうするかだけが本筋であると思っています。
 したがって狗子(犬)に仏性があるかどうかは生物学の先生に聞いていただくことにして、この私が仏性を表すような日常を送ることに重点を置きたく思っています。
 
もし趙州和尚さんが言うように「無」であれば、仏性も悟りも生死も煩悩も毀誉褒貶(きよほうへん)にも、なにもかも関わらず、今、私が出会っているそのことに真っ直ぐに出会い続けることが「無」ではないでしょうか。
  


Posted by 一道 at 13:50Comments(3)

2017年08月15日

綾渡の夜念仏と盆踊り

「綾渡の夜念仏と盆踊り」保存会

平成29年8月15日 正午 発表

国指定 無形民俗文化財「綾渡の夜念仏と盆踊り」は雨天のためおこないません。  


Posted by 一道 at 12:26Comments(1)

2016年12月01日

寺標の建立



平成28年11月28日、寺標が完成し開眼法要を営みました。
参道入口に堂々と建立されました。

平勝寺にはこれまで寺標がありませんでした。
ただし昭和10年冬に二本の門柱が建てられ、それに木製の札が掛けてあった形跡は残っています。
この二本の門柱は以前、本堂の正面にありましたが、集会所を建てたときに現在の場所に移されました。
このような状況を見て、或る檀家さんが寺標を寄進したいと申し出られました。
檀家寺寄り合いで承認を受け、このたび建ちました。

字は一道が書きました。
正面に、宗派名である曹洞宗、山号である鳳凰山、寺号である平勝寺を書きました。
  


Posted by 一道 at 18:03Comments(2)

2016年01月01日

平成28年 新年のご挨拶




あけましておめでとうございます。

 平勝寺寺報が三百号になりました。
 平成三年一月に第一号を発行しました。
 その年は、第五十四回御開帳と授戒会を控えていました。
 私は檀信徒の皆さまと連絡を密にしなければ、その大行事は円成できないと思い、月に一回寺報を出そうと決めました。
 
 九月に行われました御開帳と授戒会には五日間に延べ四千人以上の人々が参詣されました。
 戒師には現在の曹洞宗大本山総持寺貫首・江川辰三猊下を、維那には同じく大本山総持寺後堂・前川睦生老師を、説戒師には前ヨーロッパ国際布教総監・関口道潤老師を迎え、私は教授師を勤めました。
 多くの方丈様方と檀信徒の皆さまの団結した協力によって御開帳と授戒会を無事円成することができました。
 
 その大忙しの中、八月は寺報を出すことができませんでした。
 そのとき或る人が「おっさん、今月は寺報がないの?」と言われました。
 私は恥ずかしい気持ちでいっぱいになりました。
 待っていてくださる人がひとりでもいる限り、自分の都合でやめてはいけないと思いました。
 
 むつかしく考えるのでなく、今月、私は何をしたのだろう。何を考えたのだろう。何があったのだろう。誰と出会ったのだろう。そのようなテーマで書けばよいと思いました。
 あの八月の一回を除き、毎月欠かさず書いて二十五年が経ちました。
 
 綾渡の皆さま並びに『両忘』を読んでくださる皆さまのおかげで三百回を迎えることができました。
 本当に有難うございました。
 
 上の年賀状に書きましたように今年は居場所を磨くことを目指します。
 文字通り今私が居るこの場を磨くこともさることながら、僧侶として自分の立ち位置を磨くことを目指します。
  


Posted by 一道 at 16:29Comments(0)

2015年12月18日

御内の恩沢之碑



御内、金蔵連にある他の一基の石碑について書きます。

その前に前回掲載しました「凱旋紀念碑」の読み下しに誤りがありました。
疑問点を含め添削を恩師にお願いしたところ、ただちに返事をいただきました。
1.「出自」の句、漢文的には少々奇妙。
2.「皆析忠君報国之誠復能遵皇軍之法規」は対句なので、16文字ひとづきで読む。
3.「屠平壌降海城」これも対句。私は「降海」を「黄海の海戦」と誤解していた。対句なので「平壌を屠り、海城を降す」と読む。海城は遼寧省遼東半島にある町の名前。
4.「丈夫心觴」の「觴」は「腸」なら意味が通じる。「心腸」。
5.「紀念之章」は「之を紀念して章らかにす」と読んだらどうか。
以上、貴重な指摘をいただきました。訂正いたします。

今回の碑は「恩沢之碑」と言われ、昭和9年、御内、金蔵連地区に簡易水力発電所を設備した記念碑です。

上の写真が「恩沢之碑」です。

ここに原文と私の読み下し文を掲載しますので、前回同様、間違いがありましたならご指摘願います。

可戯其志操堅實其經綸遠大其識見卓絶施恵布徳人心翕然無不景仰乎竹本重利
氏知多郡成岩町人也所有當地於山林時時毎出入此境感住民不便深矣遂投私財
用水利発電気永令住民蒙文明之光輝者也可謂得此君子獲斯便利功徳為最多歟
欲使我子孫知其恩沢刻石併道謝

ああ、その志操(しそう)堅実(けんじつ)、その経綸(けいりん)遠大(えんだい)、その識見(しきけん)卓絶(たくぜつ)。恵(めぐ)みを施(ほどこ)し、徳(とく)を布(し)き、人心翕然(きゅうぜん)して、景仰(けいこう)せざるなし。竹本重利氏は知多郡成岩(ならわ)町の人なり。当地に山林を所有し、時々、この境に出入りする毎(ごと)に、住民の不便、深きを感じ、遂(つい)に、私財を投げて、水利を用(もち)いて、電気を発(おこ)し、永く、住民に文明の光輝を蒙(こうむ)らせしむ者なり。謂(いい)つべし、この君子を得、かかる便利を獲(え)る功徳、最も多となすか。我が子孫をして、その恩沢を知らしめんと欲し、石に刻み、併せて、謝を道(の)ぶ。  香積雲外撰文竝書

恩沢之碑の撰文ならびに書したのは藤本黙仙です。藤本黙仙は旧東加茂郡足助町大字足助字飯盛三九の飯盛山香積寺の第三十五世、雲外黙仙です。現在(平成二十七年)の香積寺住職、藤村孝道師は第三十九世です。ゆえに四代前の香積寺住職です。

「凱旋紀念碑」の大鷲院住職小寺黙音老師といい、「恩沢之碑」の香積寺住職藤本黙仙老師といい、昭和初期の老師方は皆、漢文・漢詩に堪能であられたことに敬服せざるをえません。足助地区に立派な老師方がみえました。

調べたことを参考までに書きます。

戯=「たわむれる」という意に用いられることが多いが、感嘆符として用いられる時もある。呼に当てた用法。「於戯(ああ)(=鳴呼)」よって「可戯」は「ああ」と読んだ。

志操=シソウ。主義や考えなどを固く守る意思。志節。

経綸=国家を治めととのえること。また、その方策。

遠大=計画や考えが、遠い将来のことまで考えた大きな規模であるさま。

識見=物事に対する正しい判断、考え。また、その能力。見識。

卓絶=他に比較するものもないほどすぐれていること。

翕=キュウ。あつまる。おさめる。あう。

翕然=キュウゼン。物事がいっせいにおこるさま。

景仰=ケイコウ。偉大だとして、慕い仰ぐ。ケイギョウ。

成岩町=ならわちょう。愛知県知多郡にかつて存在した町。現在の半田市南部に該当する。江戸時代初期、成岩村は知多郡で最も広く、最も人口の多い村という記録がある。江戸末期は犬山藩領、尾張藩領であった

蒙=こうむる。ある事を身にうける。

歟=か。文末につけて疑問・反問の語気をあらわす助辞。
  


Posted by 一道 at 21:09Comments(0)

2015年12月16日

御内の凱旋紀念碑




 御内、金蔵連は綾渡に隣接している地域です。
 今まで知らなかったのですが、そこに石碑が二基ありました。
 御内、金蔵連の人々が地域史を作るために、その石碑の内容を明確にしたいと思われ、私にそれを読むように依頼されました。

 御内、金蔵連に行き、写真を撮って原文を写してきました。
 ここに原文と私の読み下し文を掲載しますので、間違いがありましたならご指摘願います。

 まず、上の写真の「凱旋紀念碑」について書きます。

凱旋紀念碑

維時明治廿七甲午之秋征清之役出自金澤村大字御内蔵連従軍兵士四氏乃曰小池庫三郎加藤
峯次郎小池外之吉矢沢萬次郎壮男児者也皆析忠君報国之誠復能遵皇軍之法規而屠平壌降海
城略取旅順営口等所向克捷矣此役臥薪甞膽實是十有餘月也于玆媾成和熟而凱旋焉郷人歓舞
斉唱万歳乃欲為後鑑是此忠誠者郷人義挙以樹碑乃銘曰

我軍勇鏖 彼豈敢當 重義輕死 丈夫心觴 一挙于捷 報國奉皇 山唱萬歳 紀念之章

 明治廿八年六月皇軍 凱旋之日
   大日本赤十字社員 小寺黙音 誌 印
            沙門雄孚 書 印
(裏面)
     有志中
    石工 岡嵜裏町 嶺田金五郎正資 嶺田常次

 私の読み方を述べます。

 これ時、明治二十七 甲午の秋、征清の役 金澤村大字御内蔵連より従軍兵士四氏を出す。すなわち、曰く、小池庫三郎、加藤峯次郎、小池外之吉、矢沢萬次郎の壮男児なり。皆、忠君報国の誠を析らかにす。復た、よく皇軍の法規に遵いて、平壌、降海(黄海)、城を屠り、旅順、営口等を略取し、向かうところ克捷す。この役、臥薪嘗胆、実にこれ十有余月なり。ここに、媾和成熟して凱旋を為す。郷人歓舞し、斉しく万歳を唱う、乃ち、後の鏡となさんと欲するはこれ此の忠誠の者なり。郷人義を挙げて、もって碑を樹つ。銘に曰く、

我が軍勇鏖 彼あに敢えて当たらんや 義を重んじ死を軽ろんず 丈夫の心觴 一たび挙ぐれば捷ち 国に報い皇に奉ず 山、万歳を唱う 紀念の章

 読むに当たり、調べたことを参考までにかきます。

小寺黙音:旧東加茂郡足助町大字新盛字森下二二の扶桑山大鷲院の第二十一世。豪潮黙音です。黙音の師僧は二十世、魯山賢龍です。現在(平成二十七年)の大鷲院住職、中根祐典師は第二十七世です。故に六代前の住職です。

川合雄孚:凱旋紀念碑の文字を書いたのは河合雄孚ですが、経歴がわかりません。沙門と書いてあるので僧侶であり、小寺黙音老師と関係ある人だと思います。雄孚という僧名ですが、大鷲院開山は心翁永孚禅師なので「孚」をもらった大鷲院関係の僧であるかもしれません。

維時:「時はこれ」と読んでもよいと思いますが、私たち仏教徒は「これ時」と読んでいます。

征清之役=日清戦争(中国簡体字では甲午战争)のこと。明治二十七年(一八九四)七月から明治二十八年(一八九五)三月にかけて行われた主に朝鮮半島(李氏朝鮮)をめぐる大日本帝国と大清国の戦争である。明治七年が甲午(きのえうま)なので碑文に「明治廿七甲午之秋征清之役」と小寺黙音老師は書いた。

皆折忠君報国之誠=この句中にある「折」でありますが、木偏も筆の勢いで手偏にみえることもあります。木偏の「析」のほうが意味が通じると思う。「折」は「おる、おれる、くじく」という意味で「忠君報国の誠を折る」では意味をなさない。「析」であれば「ひとつづつ分けて明らかにする」という意味があり、「皆が忠君報国の誠を明らかにした」と読むことができる。

屠=ほふる。からだをばらばらにして殺す。屠城(城を屠る。例えば、屠咸陽とあれば、咸陽を攻め滅ぼすこと)

屠平壌降海城=「屠」は攻め滅ぼすこと。「平壌」は平壌の戦いをいう。平壌の戦いは日清戦争における最初の本格的な陸戦である。
「降海」は「黄海」の誤りではないだろうか。「黄海の海戦」は清の北洋艦隊と日本海軍の黄海における海戦である。「城」は、戦場となった多くの城(都市)をいう。

旅順営口=後年の日露戦争の旅順攻略と異なり、日清戦争の旅順口の戦いは、明治二十七年十月に大山巌大将率いる第二軍が金州に上陸し、十一月に金州城を占領する。その後、日本軍は清国軍に対して攻撃をして、堅固な旅順要塞を僅か一日で陥落させた。営口は現在の遼寧省にある。営口占領は、牛荘作戦と呼ばれた日清戦争中の戦闘である。

克捷=こくしょう。勝利を得る。

媾成和熟=媾和(講和)が成熟したという意味。媾和という語と成熟という語を分けて組み合わせて碑文に格調をもたらすために媾成和熟と言った。

于=う。「於」と同じ用法。置き字として読まないか、または「~に」「~において」と読み、「~において」「~にいたって」「~から」と訳す。「干」と「于」は違う。

焉=えん。文末において訓読せずに「~なのだ」「~にちがいない」と訳す。語調を整え、断定の語気を示す助詞。

樹=き、たてる、たつ、うえる。

銘=多くの場合四字句から成り,偶数句で押韻する。この場合も偶数句の「彼豈敢當」「丈夫心觴」「報国奉皇」「紀念之章」の「當」「觴」「皇」「章」は、ともに下平声・七陽の韻であり、押韻されている。私の疑問点は四句目の「丈夫心觴」の四字目「觴」が写真で撮ったところ偏が「觴」のように彫ってない。しかし旁は「觴」であった。「觴」は七陽の韻でここに来てもよいのだが、「心觴」という言葉はあるのでしょうか。ご教示願います。

孚=ふ。はぐくむ、まこと。情けの厚いさま。



  


Posted by 一道 at 20:22Comments(3)

2015年05月25日

平成27年度 花まつり



今日、5月25日は旧暦4月8日です。
朝、綾渡の皆さんの家から花をいただき、花御堂の屋根を花で葺きました。
お釈迦さまの誕生を祝って、甘茶をかけました。  


Posted by 一道 at 22:42Comments(4)

2015年03月01日

坐禅の時の眼は半眼に





 坐禅中、眼はどのようにしているのかと聞かれました。
私は「大きく開けすぎず、かと言って閉じてもいない。仏像のように半眼にします」と答えました。

 二月の坐禅会で、或る人が質問しました。
「目を開いていると集中できませんでした。目を閉じているほうが集中できました。
ですから半眼ではなく、閉じていたほうがよいのではありませんか」

 私は次のように答えました。
「道元禅師が書かれた『普勧坐禅儀』に目は須らく常に開くべしとあります。
また『正法眼蔵坐禅儀』では、目は開すべし、不張不微なるべしとあります。
ですから、私は先人の言葉に従っています。
しかし、それだけでは私自身も納得できませんので、何故、かすかに開くのか理由を述べます。
その前に『集中できました』と言われた『集中』が意味する内容を教えてください」

 その人が答えました。
「私は木が好きです。坐禅会に来る直前に材木店に立ち寄りました。
そこに美しい木目の木がありました。
目を開いていると周りの人が気になり、集中できませんでした。でも目を閉じて美しい木目をじいっと思い浮かべていると集中できました」

 私たちが坐禅で犯し易い間違いが、質問者の答えにはっきり表現されています。
その間違いを明らかにすれば何故、目をかすかに開いていなければならないのかが分かると思いました。

 そこで私は玄奘三蔵がインドから中国に伝えた唯識で説明することにしました。
上の写真の法曾祖父、澤木興道老師が奈良の法隆寺で佐伯定胤大僧正から苦労して学んだ難解な唯識が私に分かるわけがありません。
それを承知で、私が安泰寺で習った『唯識三十頌』を思い出して話をしました。

 唯識では眼・耳・鼻・舌・身の五つの感覚器官(五根)に加えて、意(普通私たちが思っている心)も六番目の感覚器官としています。
五根は器官の働きであって、器官そのものではありません。
眼根と言った場合、眼球そのものを指すのではなく、見るという働きを言います。
眼根がその感覚対象とするものは色(形を持ったもの=物質)です。
例えば、私の目の前のボールペンも色のひとつです。眼が物体を見た途端、その人が蓄えてきたあらゆる経験から「これはボールペンだ」とその人独自の認識(眼識)が生じます。

 これと同じように意根は何をその感覚対象にしているのでしょうか。
それは「思い」です。

 私の頭が「思い」を湧き出させ、意根がそれを認識します。
眼識と同じ言い方をして、意根の認識を意識と言います。

 次々と湧き出た「思い」のうち特定の「思い」に意根が集中すると、意識はそこから離れがたくなります。
そういう状態を内山老師は「考えごとをしている状態」と言われました。

 質問者が言われた「美しい木目を思い浮かべて集中できた」というのは、木目以外に雑念がなく木目だけを考えていたとは言えますが、坐禅をしていたとは言えません。
坐禅は「思いの手放し」「考えごとをしない」ことだと私は教わりました。

 集中して考えごとをするとき、人は目を閉じて周りから入ってくる五境の情報を遮断しようとします。
それは坐禅でありません。したがって目はかすかに開いているのがよいのです。

 また長時間、坐禅するとき、眼を閉じると意識がはっきりしなくなり寝てしまうことがあります。
そのためにも目を開けているのがよいのです。『永平清規』の中に「切に忌む眼を閉づることを。昏(眠気)生ずればなり」と書いてあります。

 このような理由で坐禅中は、目をかすかに開いて「考えごとをせず、眠りもしない。思いが浮かんで来たら、思いを追わず手放す。そして正身端坐の姿勢(坐相)を保つこと」が坐禅であると私は習いました。
  


Posted by 一道 at 11:05Comments(2)

2014年08月15日

15日の「綾渡の夜念仏と盆踊り」中止です

15日、朝からすでに雨が降っています。
夕方から夜にかけて断続的に雨が降る予報が出ています。

そのため15日の「綾渡の夜念仏と盆踊り」を中止すると保存会長から連絡がありました。
(平成26年8月15日、午前8時30分、発表)

「綾渡の夜念仏と盆踊り」にご来山予定の皆様にはご迷惑をかけますが、ご容赦ください。   


Posted by 一道 at 08:54Comments(2)

2014年08月09日

10日の「綾渡の夜念仏と盆踊り」中止

台風11号が東海地方に接近しています。
9日(土)夜8時、すでに雨が降っています。
10日も断続的に雨が降る予報が出ています。

そのため10日の「綾渡の夜念仏と盆踊り」を中止すると保存会長から連絡がありました。

「綾渡の夜念仏と盆踊り」にご来山予定の皆様にはご迷惑をかけますが、ご容赦ください。
  


Posted by 一道 at 20:02Comments(0)

2014年07月24日

辻晋堂 作 「平勝寺老僧」



 平成26年7月24日、辻晋堂さんの長女・茜さんと甥・卓司さんが平勝寺に来山されました。
茜さんは父、辻晋堂晩年の作品を持参されました。卓司さんは付き添いです。
茜さんは今朝、京都の今熊野を出発し、卓司さんは茅ヶ崎を出発し名古屋駅で合流して平勝寺へ登られました。

持参されたものは、平勝寺の先住・小川昇堂さんの姿を作品にしたものです。
写真を載せておきます。
辻晋堂さんは昇堂さんの佛弟子でした。
晋堂さんは昭和のはじめ、鳥取で昇堂さんと出会い心酔したそうです。
晋堂さんは、その後、上京し洋画を学び彫刻もはじめました。

昭和17年、第29回院展で「詩人大伴家持試作」が第一賞となり、異例の若さで日本美術院同人に推挙されました。
戦後、京都市立美術大学の教授となりました。
どのような経緯で美術大学に行くことになりましたかと私が質問したところ、茜さんは「平櫛田中先生が推挙された」と答えました。

晋堂さんは昭和30年ごろから抽象的な陶彫を発表しました。
サンパウロやベネチアで国際的な評価を得ました。
京都の登り窯で大型の陶彫を焼いていましたが、大気汚染防止法が施行され、京都市内では登り窯が焚けなくなりました。
その後は電気窯で焼ける小型の陶彫作品を作るようになりました。

今回、平勝寺に寄贈された「平勝寺老僧」も小型の陶彫です。
昭和55年4月8日の作品です。
辻晋堂さんは翌昭和56年8月18日に他界されたので、最晩年の作と言ってもよいでしょう。
独特な雰囲気を持っています。

平勝寺の寺宝として収蔵します。

(参考までに:3年前、鎌倉にある神奈川県立近代美術館にて「生誕100年 辻晋堂展」がおこなわれました。)
  


Posted by 一道 at 22:29Comments(0)

2014年05月17日

東部仏教会の花まつり



5月17日、午後1時より平勝寺本堂にて足助東部仏教会の花まつりを勤めました。
随喜された寺院は、龍宝寺さん・宗源寺さん・円通院さん・万昌院さん・宝樹院さんです。
体調不良などで欠席された寺院は宝珠院さん、昌全寺さんです。
50名ほどの檀信徒の皆さんがお参りされました。
久しぶりに甘茶を飲んだと言われたひともいました。
もうすぐ2歳になる綾渡の潤くんも来てくれました。
法要後は集会所でグループ「天の河」の演奏にあわせて皆、歌をうたいました。


  


Posted by 一道 at 21:20Comments(4)

2014年02月17日

記録的な大雪



平成26年2月8日(土)、明け方には既に10cmほど積雪していました。
日本の南海上を急速に発達しながら北東に進む低気圧の影響で綾渡にも大雪が降りました。
今年は雪が少ないと思っていましたが、そうでもなさそうです。

8日の朝、藤澤家へ法事に出かけました。
塔婆や衣、経本などを持っていたので、注意して歩きました。
しかし、凍てついた門坂で転んでしまいました。

2月9日(日)、集会所横の道路に集会所屋根の雪が落ち、通行が不能になりました。
どうしても出かけなければなりませんでしたので、積雪30cmの本堂前を強行突破して車を下におろしました。
帰山後、3時間かけて集会所横の除雪をしました。

2月14日から降り続いた大雪で15日は車にスコップと鉈を積みこんで出発しました。
12時から古瀬間霊園での葬儀に9時半にお寺を出ました。雪の重みで竹が道路に垂れ下がっているのを鉈で伐り倒しながら進みました。
帰山する途中、綾渡の人々が道路の雪かきをしてみえたので、帰ってすぐ着替え、作業に合流しました。
綾渡の人々が持っている重機を3台、出動させ道路の雪かきをしていただきました。

15日、夜8時から椿立連区の定例会でしたが、綾渡以外の地区は集まれないので止めになりました。
綾渡地区は予定通りおこなうという連絡でした。
車で行くのは危険とのことで、私は歩いて行きました。
しかし、又、転んでしまいました。
そこで以下の写真のように長ぐつに縄を巻き付け、歩いています。

今日、17日の観音講は、漆畑の原田恵子さんが必死の思いで参加されました。
あとは綾渡の人だけでお参りしました。

2,3日後にまた雪が降るとの予報が出ています。
全国的に不都合な事が起きませんように。


  


Posted by 一道 at 20:49Comments(0)

2014年02月04日

平成26年度 節分



昨日、節分の豆まきを本堂でおこないました。
私が平勝寺へ入寺したときに、藤澤ヨネさんが「平勝寺でも節分の豆まきをしてほしい」と言われました。
それで平成元年からづっと続けて節分会をしています。
しかし、去年は私の手術後で節分をとりやめました。

今年は雪もなく、穏やかな日でした。
主に綾渡の人々が参加されました。
観音堂でお参りをして、本堂で豆まき、集会所で昼食を取りました。
皆、健康に気をつけて、充実した一年が過ごせますように。  


Posted by 一道 at 10:53Comments(0)

2014年01月19日

今朝の雪



例年、綾渡ではお正月前後に雪が降ります。
しかし今年は降らず、1月17日の初観音の法要も無事に勤めることができました。

昨夜、冬型の気圧配置が強まったのでしょうか、深々と冷え込みました。
今朝(19日)眼が覚めたら、一面の銀世界でした。

今日は慶安寺さんの半僧坊大般若法要に随喜します。
檀信徒の皆さんに話をする原稿を今から書きます。



  


Posted by 一道 at 08:55Comments(2)

2013年11月30日

停車坐愛楓林晩



遠上寒山石徑斜
白雲生処有人家
停車坐愛楓林晩
霜葉紅於二月花

晩唐の詩人、杜牧の詩です。
夕方、いつも裏山を周遊しています。
山道に散った「もみじ」が夕日に映えて、とても美しいです。

池に落ちた「もみじ」も風情があります。

下戸な私には望むべきもありませんが、白居易は「林間暖酒焼紅葉」。
白居易は落ち葉のたき火で酒を温めて飲み、緑苔をはらって石上で詩を詠んだのでしょう。

至福の時を共有したいものです。

  


Posted by 一道 at 13:50Comments(0)

2013年11月16日

平成25年の紅葉



今朝(11月16日)のもみじです。
香嵐渓の紅葉も盛りとなり、大渋滞が発生しているとのことです。
山里の綾渡では、静かな秋の季節が流れています。


  


Posted by 一道 at 10:23Comments(0)

2013年09月03日

観音石仏の移動




 足助から平勝寺に至る昔の三つの道沿いに百体の観音菩薩像が祀られています。

 慶応元年七月に坂東三十三観音像が作られました。
この観音石仏群は桑田和を出発点として大蔵連を通り綾渡地内に入って平勝寺門前が終点の三十三体です。

 つぎに慶応二年七月には秩父三十四観音像が作られました。
この観音石仏群は中之御所を出発点として漆畑、椿立を通り綾渡地内に入って平勝寺門前が終点の三十四体です。

 続いて慶応二年八月には西国三十三観音像が作られました。
この観音石仏群は安実京を出発点として有洞、山谷を通り綾渡地内に入って平勝寺門前が終点の三十三体です。

 足助から平勝寺へ車で来山されると出会えない観音石仏があります。
それは人しか通れない旧道に観音石仏がお祀りしてあるからです。
めったにお参りできない旧道に観音さまがおみえになるのは忍びないと山谷の人々は思いました。
そこで今年度の「わくわく事業」の予算を使い旧道の観音石仏を車の通る道路沿いに移動させようということになりました。
 
八月二十四日(土)、山谷の役員さん四名と私は旧道沿いにある十四体の観音石仏の魂抜きをおこない、いつでも移動できるよう準備しました。
私が林の中の観音さまに再会したのは二十三年ぶりです。
平勝寺住職になった頃、鈴木茂夫先生や柴田金一さんに百体観音石仏についてその由来を聞きました。
平勝寺に関係のあることだと思い、一体一体を調査しました。
石仏の大きさ、像容、寄附者の氏名など記録しました。
そしてB紙に百体観音石仏の位置を書きこみました。
平成二年十月二十五日に清書し、一枚の大きな地図を作っておきました。
今回その地図が役立ち、林の中にある観音さまをすぐに見つけることができました。

 移動整備するのは西国三十三観音像のうち山谷地区にある第九番から第二十三番です。
第九番は有洞から山谷に入る白山神社の対面の旧道にあったものです。
第十番は白馬観音堂の麓にあったものです。
第十三番はありません。
百体観音のうちこの西国第十三番観音像だけが無いのは、平成十七年八月に盗難に遭ったからです。
落部の野田甚五郎氏によって寄附されたものですが残念ながら誰かが盗っていってしまいました。

今回、観音さまを車が通る道に移動するにあたり、盗難の心配がありますが、強力な接着剤で観音石仏を土台石に着けるとのことです。 

第十四番、第十五番は車道の北側の旧道にあったものです。
第十九番は山谷の薬師堂の脇にあったものです。
第二十番は最も険しい林の中にありました。
第二十一番は筒井敏夫さんの炭焼き小屋の後ろにあったものです。
第二十二番と第二十三番は東海自然歩道沿いにあったものです。
 
移動整備がなされた折りには、魂入れの法要をおこないます。

 観音石仏と言えば、数年前から百体観音石仏群の調査をはじめられた人がふたりみえます。
ひとりは、さとやまユースの小川光夫さん、もうひとりは夜念仏に参加されている藤森修先生(解剖学教授)です。

 小川さんは秩父三十四観音を調査し、私に疑問を呈しました。
私が秩父第十九番観音石仏(黒柳博家入り口にあるもの)としているのが違うのではないか。
第十九番は椿立明神社の入り口にあると言われました。
一緒に調査に行きましたが、小川さんが言われる通りでした。
では、黒柳家の前にある観音石仏は第何番になるのでしょう。
今後、継続調査します。
 藤森先生は人体について常にデータを科学的に処理されておられます。
観音石仏も学術的に記録されることを私は期待しています。
  


Posted by 一道 at 14:22Comments(2)

2013年02月28日

三月は行事が目白押し





春の日差しが暖かくなりました。
森林組合の皆さんに裏山の間伐をしていただいています。

三月は行事が目白押しです。
書きあげてみます。

三月一日(金) 足助高校卒業式 参列

 この行事参列をもって足助高等学校学校評議員を辞任します。
平成十八年四月から七年間、勤めました。
その間、川合政仁校長先生、平松学校長先生、長谷龍吾校長先生、磯谷和明校長先生など四代の校長先生の教育方針に接してきました。
県立足助高校は地域に根差し、少人数で丁寧に教えてもらえ、学校規模は小さくても大きな夢が叶う学校といえます。
今後も期待しています。


三月三日(日) 龍宝寺・本堂落慶法要

 去年の二月に本堂を解体し、今年のこの日に本堂落慶法要が営まれます。
解体されるとき、棟札を見ました。
その棟札には宝暦四年と書かれていました。
今から二百六十年ほど前に旧本堂が建てられたことが分かりました。
宝暦は享保の改革後、増税による百姓一揆が各地に起きた時代でした。


三月十日(日) 初午大般若法要

 午前十時から受付を開始します。法要は午後一時からです。
粗飯を用意しておりますので、お寺で昼食を取るようにお越し下さい。
 なお餅投げの準備、実行は平成十一年度から自治会長さんを中心に伍長以上の役員さん方がお世話くださっています。今年もよろしくお願いいたします。
 今回は「二天立像修復ならびに収蔵庫改修 記念特別公開」を午後一時から三時までの二時間、おこないます。
二天立像が立派に修復できたのは、愛知県と豊田市と住友財団の補助金があったからです。
住友財団の助成金を受けるに際して、修復後、公開しなければならないとの条項を満たすために、初午にあわせて公開いたします。
是非、ご来山ください。


三月十七日(日)  観音講 中止

 今月の観音講は、綾渡地区の「わくわく事業」と重なりましたので中止します。
私は、慶安寺春彼岸施餓鬼法要に随喜します。


三月十八日~二十三日  香積寺彼岸経参り

 香積寺様、慶安寺様、昌安寺様といっしょに彼岸経を勤めます。
その間、足助の三ヶ寺で春彼岸施食法要がおこなわれます。


三月十八日~二十四日  テレホン法話

 曹洞宗・東海管区教化センターでは毎日「たのしみ法話」をおこなっています。
三月十八日から二十四日までの一週間、私の放送が流れます。
「末期(まつご)の眼をもって生きる」と題して話します。
 フリーダイヤル0120の560の511は何度かけても通話料金が要りませんので、このフリーダイヤルをご利用ください。
東海地区以外の方は052の682の3511でおかけください。


三月二十六日(火)  旧暦 涅槃会

 お釈迦さまの亡くなられた日です。涅槃図をかかげ、涅槃団子の接待をいたします。是非、お参りください。


三月三十日、三十一日(日) 宗源寺晋山式

 藤村信隆師(五十四歳)が宗源寺に晋山されます。
信隆師は昭和五十七年に愛知学院大学文学部を卒業し、そのまま愛知学院に奉職され現在に至っています。
 宗源寺では四年前から檀信徒の皆さんで晋山式の準備をされてきました。
首座は新城市玖老勢の周昌院徒弟・高柳鐡山さんです。
当日、四十ヶ寺のご寺院が随喜します。
 同時に先住・藤村孝道老師の退董式もおこなわれます。
孝道老師は昭和三十年に宗源寺住職に就任されています。
よって五十八年、勤められたことになります。
内助の功を果たされたお庫裡さんも顕彰されます。



  


Posted by 一道 at 14:45Comments(0)

2013年01月14日

いのちのありようを求めて




(矢作新報 平成25年1月10日 発行 転載)

 昔から禅僧は正月に遺偈を作ってきた。遺偈とは漢詩で表現された遺言である。
この年のいつ亡くなってもいいように正月に書いておくのである。

 仏弟子として師匠から何を学びどのように実践してきたのか、また後人に伝えたいぎりぎりの一句を述べるとしたらどのような言葉を吐くのか。
嘘偽りや飾りを徹底的に除いて今の私が言えることはこれだと吐露したのが遺偈である。

 死ぬ縁が整わず、次の正月を迎えることができたならそのとき又、あらたな遺偈を作る。
この意味で遺偈は死ぬ直前の書置きではなく毎日毎日、自己を見極めるための覚悟であるとも言える。

 幸いに私はこの歳になるまで患うことがなかった。
 しかし昨年末、病を得、生涯ではじめて手術を受けた。
手術当日、午後一時に看護師さんが私を迎えに来た。
私は手術着に着替え待っていた。私は看護師さんに連れられ歩いて手術室に向かった。
手術台に登ると心電図や血圧計などいろいろな機器が私に付けられた。
全身麻酔をするために背を丸め、脊髄の硬膜外腔に細いカテーテルが入れられた。
カテーテルを固定し終わったところで、仰向けになるよう指示があった。
仰向けになりながら私は手術室に掛けてある時計を見た。

「ああ、一時十分か。」

 その直後から何も覚えていない。痛みもない。呼吸も止まっていたのだろう。

 近代医学の恩恵を蒙ってちょうど四時間後に私は目を覚ました。
もし目が覚めなかったなら私の末期の眼に映った今生の風景と感慨は「ああ、一時十分か」ただそれだけである。
末期の眼に映る風物が切ないほど美しいと言える人は末期でなくとも美しさを見出す眼を持った人だったのだろう。
その人が生きてきた瞬間と同じ末期の瞬間しか迎えることができないと思った。

 僧侶として多くの人の死を見つめてきた。
いのちには限りがあるとわかっているのに自分の死はまだ先だという気持ちがどこかにあった。
今回、病を得て私にも遠からず終末が来ることが実感できた。
そのときになって「ああ、一時十分か」だけではいかにも口惜しい。
遺偈という形をとらなくてもよい。
平生使っている言葉で身近な人に伝えるべきことを伝えておかなくてはならないと思った。

 私が伝えなければならないと思っていることは一体何であろうか。
すべてが移り変わるこの世にあって、いのちのありよう、使いようを求め続けている姿勢としか言えない。
求めた結果としての答えは未だ手にしていない。
生死の一大事を明らかにするために過ごす日々が私の遺偈であり、仏弟子としての本懐であると思っている。
  


Posted by 一道 at 21:09Comments(5)