2018年01月01日

平成30年 新年のご挨拶

平成30年 新年のご挨拶


あけましておめでとうございます

皆さま一人ひとりが、さまざまな思いを持って新しい年を迎えられたことと存じます。
皆さまにとって良き年になりますように。
 
今年は、いぬ年です。
 私たち禅宗の僧侶が読む語録、特に公案集のひとつに『無門関』という書籍があります。『無門関』は今から約八百年前に中国南宋の時代に著されました。
 
禅宗では古来より修行者が師匠に疑問を呈したり、師匠が修行者に指針を示したりしてきました。
そのように禅者たちの間で交わされた会話(問答)のうち、大切だと思われるものを無門慧開という人が四十八則選び出したものが『無門関』です。
 
その『無門関』の第一則は犬(狗子(くす))を話の取っかかりとして、趙州和尚さんが修行者にいのちの本質を示したものです。
 
私が就いた師匠は公案を使わなかったので、『無門関』第一則、無字の公案すら私は通っていません。
ですから表面的なことしか言えませんが、いぬ年ですから第一則を紹介します。
 
或る修行僧が趙州和尚に質問しました。
「狗子還有仏性也無 (狗子に還って仏性有りや また無しや)」
修行僧の質問の大意は「犬にも仏性があるでしょうか、または無いでしょうか」というものでした。
趙州和尚は「無」と答えました。
 
問答はこれだけです。このたった一字の「無」に禅僧は一生をかけて取っ組み合って参究します。
 
今の私には何も言えません。
ただ、仏道修行は他人事ではなく、すべて自分に引きつけてこの私がどうするかだけが本筋であると思っています。
 したがって狗子(犬)に仏性があるかどうかは生物学の先生に聞いていただくことにして、この私が仏性を表すような日常を送ることに重点を置きたく思っています。
 
もし趙州和尚さんが言うように「無」であれば、仏性も悟りも生死も煩悩も毀誉褒貶(きよほうへん)にも、なにもかも関わらず、今、私が出会っているそのことに真っ直ぐに出会い続けることが「無」ではないでしょうか。



Posted by 一道 at 13:50│Comments(3)
この記事へのコメント
 新年明けましておめでとう御座います。貴重なお話しありがとう御座いました。しかし一言、重大な史実をお知らせしたいと思います。曹洞宗道元禅師は公案は「知的理解に陥るとして、只管打座を解かれました。」臨済宗は公案を使い、曹洞宗は公案は使いませんでした。だから一道様が、師匠から聞いた覚えがないのは当然です。ですから公案も与えられない曹洞宗の修行は、並大抵の修行ではなかったのです。いま私は「宏智禅師頌古百束」を読んでいます。これは宋の時代の中国の禅僧ですが、道元禅師は「古頌百則」を尊び、只管打座を奨励され、言葉で悟りを伝えようとするが如き公案は、使われませんでした。私は初めに三島の龍澤寺の山本玄峰老子を訪ねたが、入山を許されず、近くの座禅堂を紹介され、初めて座ったのは、ここの臨済禅でした。ですから公案から入り、公案の面白さを知りながら座ったまがい物です。ですから不譲大愚と名乗ってきました。パソコンで宏智禅師頌古百束を検索してみて下さい。その中の佐藤悦成篇をご覧になれば、ご理解いただけると思います。九拝
Posted by 加藤不譲 at 2018年01月01日 17:16
あけましておめでとうございます。
貴重なアドヴァイスをありがとうございました。

「私が就いた師匠は公案を使わなかった」と書きましたが、私は「公案を使わない」師匠を選んだと言ったほうが本意に近いです。

27歳のとき京都の安泰寺で出家得度するとき、私の仏道修行に世間感覚を持ち込みたくなかったのです。世間感覚というのは、それまで私が育ち、教育を受け、企業に就職した経緯全部に通底している感覚です。

27歳の時点で感じていた上記の世間感覚で公案を推測するに、私は以下のように思いました。
「私が公案禅をなしたならば、きっと何則、公案が通ったと競争禅になってしまうだろうな。
または公案が通らないと不安感を持ってしまうだろうな。そのような比べあう禅は、私にとって仏道修行にならない。内山興正老師は『進みながら安らう』と言われた。内山老師、沢木老師の源流である道元禅師の只管打坐こそ私がなすべき坐禅だ」と思いました。

27歳のとき京都ではじめて師匠に会い、いろいろ師匠から質問され、最後にこう聞かれました。
「佐藤君は、ここがどういうお寺か知っていますか。何がしたいのですか」
「無階級の修行がしたいです」
「今日、泊まるところがありますか」
「ありません」
「それでは、ここに泊まりなさい。そのかわり黙って10年、坐りなさい」
そのような訳で公案を使わない師匠を選び、師匠の下、叢林に十年半、安居しました。
もちろんその十年間、毎冬、師匠から『正法眼蔵三百則』の提唱を受けました。

「無字の公案すら通っていません」と書いたのは、臨済宗の雲水さんを知っていますので、只管打坐の私が公案を持ち出すのが憚れましたのと、実際の独参をしていないからです。

『正法眼蔵三百則』の提唱のときの疑問点、ならびに師匠からの示唆は日常の言葉で徹底的に戦わしました。それが、道元禅師の嫌われたところであります。しかし、それもなければ黙照禅の弱点になります。

どちらにしても私にとっての仏道修行は、公案を使わない「行持道環」即ち無始無終の「無階級」の修行です。
わけのわからないことを一気に書きましたが、今後ともよろしくご指導お願いいたします。
2018.01.03 一道
Posted by 一道一道 at 2018年01月03日 17:36
 隙のないお言葉に、感服しました。

 本年もよろしく、ご指導お鞭撻をお願いいたします。九拝
Posted by 加藤不譲 at 2018年01月05日 14:05
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    コメント(3)