2015年03月01日

坐禅の時の眼は半眼に





 坐禅中、眼はどのようにしているのかと聞かれました。
私は「大きく開けすぎず、かと言って閉じてもいない。仏像のように半眼にします」と答えました。

 二月の坐禅会で、或る人が質問しました。
「目を開いていると集中できませんでした。目を閉じているほうが集中できました。
ですから半眼ではなく、閉じていたほうがよいのではありませんか」

 私は次のように答えました。
「道元禅師が書かれた『普勧坐禅儀』に目は須らく常に開くべしとあります。
また『正法眼蔵坐禅儀』では、目は開すべし、不張不微なるべしとあります。
ですから、私は先人の言葉に従っています。
しかし、それだけでは私自身も納得できませんので、何故、かすかに開くのか理由を述べます。
その前に『集中できました』と言われた『集中』が意味する内容を教えてください」

 その人が答えました。
「私は木が好きです。坐禅会に来る直前に材木店に立ち寄りました。
そこに美しい木目の木がありました。
目を開いていると周りの人が気になり、集中できませんでした。でも目を閉じて美しい木目をじいっと思い浮かべていると集中できました」

 私たちが坐禅で犯し易い間違いが、質問者の答えにはっきり表現されています。
その間違いを明らかにすれば何故、目をかすかに開いていなければならないのかが分かると思いました。

 そこで私は玄奘三蔵がインドから中国に伝えた唯識で説明することにしました。
上の写真の法曾祖父、澤木興道老師が奈良の法隆寺で佐伯定胤大僧正から苦労して学んだ難解な唯識が私に分かるわけがありません。
それを承知で、私が安泰寺で習った『唯識三十頌』を思い出して話をしました。

 唯識では眼・耳・鼻・舌・身の五つの感覚器官(五根)に加えて、意(普通私たちが思っている心)も六番目の感覚器官としています。
五根は器官の働きであって、器官そのものではありません。
眼根と言った場合、眼球そのものを指すのではなく、見るという働きを言います。
眼根がその感覚対象とするものは色(形を持ったもの=物質)です。
例えば、私の目の前のボールペンも色のひとつです。眼が物体を見た途端、その人が蓄えてきたあらゆる経験から「これはボールペンだ」とその人独自の認識(眼識)が生じます。

 これと同じように意根は何をその感覚対象にしているのでしょうか。
それは「思い」です。

 私の頭が「思い」を湧き出させ、意根がそれを認識します。
眼識と同じ言い方をして、意根の認識を意識と言います。

 次々と湧き出た「思い」のうち特定の「思い」に意根が集中すると、意識はそこから離れがたくなります。
そういう状態を内山老師は「考えごとをしている状態」と言われました。

 質問者が言われた「美しい木目を思い浮かべて集中できた」というのは、木目以外に雑念がなく木目だけを考えていたとは言えますが、坐禅をしていたとは言えません。
坐禅は「思いの手放し」「考えごとをしない」ことだと私は教わりました。

 集中して考えごとをするとき、人は目を閉じて周りから入ってくる五境の情報を遮断しようとします。
それは坐禅でありません。したがって目はかすかに開いているのがよいのです。

 また長時間、坐禅するとき、眼を閉じると意識がはっきりしなくなり寝てしまうことがあります。
そのためにも目を開けているのがよいのです。『永平清規』の中に「切に忌む眼を閉づることを。昏(眠気)生ずればなり」と書いてあります。

 このような理由で坐禅中は、目をかすかに開いて「考えごとをせず、眠りもしない。思いが浮かんで来たら、思いを追わず手放す。そして正身端坐の姿勢(坐相)を保つこと」が坐禅であると私は習いました。
  


Posted by 一道 at 11:05Comments(2)